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第百九話(まこと篇-4)

やがて婦人警官に連れられた母が台所へとやってきた。
腕が疲れたのか、手はもうすっかり前に下げている。
カーディガンも外されて鎖で繋がれた手首が顕だった。
それもまた現実とはほど遠く思われた。
指輪はやはり三日前と同じ場所に見つかった。

「元気だったかい?」

母がそうまことを見下ろした。
浮かべた笑みがふてぶてしくて同時に弱々しかった。
胃のさらに下の方が締めつけられる心地がして、頷いて答えるしかできなかった。
母が膝を折ろうとしてかすかによろけ、結局屈むことを諦めた。
足に上手く力が入らないとでもいった様子だった。

「あたしゃまた戻らなきゃならないみたいなんだ。
そうなんだろ? 婦警さん」

目だけでそちらに向いた母に、ええ、と婦人警官が短く応じた。
母は、だってさ、といいながら両手を広げて見せようとして手首の戒めに邪魔されていた。

「しかも今度はいつ帰って来れるかわからないみたいなんだ。
ひょっとするとあんたの顔もしばらく見納めかもしれない。
どうだいまこと? 嬉しいかい?」

返す言葉を見つけられずに母を見上げた。
母はおどけて見せようとして失敗したような顔をしていた。
隣の婦警が眉をひそめて顔を背けた。
するとそこで母がふと思い出したように彼女の方に向きなおった。

「なあ、着替えくらいは持たせてもらえるんだろう? 
化粧品とかもいいのかな」

「衣類はともかく、凶器やほかの目的に使えそうなものはだめです」

「どういうことだい?」

「はさみとかつめ切りとかで自傷したり、あるいはガラスを割って手首を切ったりとか、そういうことがあっては困りますから」

すると母は今度こそおかしそうに笑った。

「聞いたかい、まこと。
あたしが自分で死んだりするもんかってさ、ねえ」

全然おかしくないよ、と思いながらもやはり言葉が出なかった。
胸にはさっきからずっと母に訊きたいこと、確かめたいことが渦巻いていた。
でもそれを今この場所にいる無関係な大人たちに聞かれたくなかった。
そんなことは絶対嫌だった。

―母さんはこんなふうなやり方であたしを捨てるんだね。

気づくとそんな疑問が脳裏を回って止まらなくなっていた。

「だけどそれじゃあ、コンパクトも見られないってことかい」

母が心底残念そうに呟くと、もうお化粧も必要ないですよ、と婦人警官が嘲るように答えた。
すると母はきっと相手をにらみつけ、唇だけで下手糞、と相手を罵った。
婦警は眉だけをさらに釣りあげこそしたけれど聞こえない振りをした。

「じゃあとにかく下着とか探すからさ、少しだけこれ、外してくんないかな」

そういって母は無造作に両手を相手に突き出した。
ちょうどそこへ例の年配の刑事が台所の前を通りかかった。
警部、と婦警が男に声をかけ何やら耳打ちをした。
母の今の要求を伝えたに違いなかった。
男はすぐに首を左右に振った。

「申し訳ないが、認められんよ」

だがその途端母は男の胸元に進んで激しく食ってかかった。
今までの覇気のなさが嘘のような打って変わった勢いだった。

「なんだい、警察ってのは母親が実の娘を抱いてやることも許してくれないのかい? 
今度いつ会えるかだってわからないんだろう? 
少しくらい好きにさせなよ。
こんなんでも母親だからね。
それにあたしゃ逃げやしないって。
それは最初からいってるじゃないか」

一気にそこまで捲くし立てた母はそこでかすかに俯いて、頼むよ、と哀れっぽく声を出してみせた。
眉を曲げた男が渋々といった様子で頷いてポケットから何かを取り出し婦警に渡した。
手錠の鍵に間違いなかった。

両手が自由になると母は急にしおらしくなり、さっきは済まなかったねと男に詫びをいうことさえした。
それから母はそそくさと客間に足を運び箪笥の引出しを開け始めた。
同じ婦人警官がずっと母の傍らにいて、バッグの中や衣服はもちろん、下着の一枚一枚に至るまで、母がしまおうとするたびに手を伸ばして何か異物が縫い込まれたりしていないかどうかを確かめていたようだった。

「君には、御親戚の方とかはいないのかな」

すぐ近くで年配の男の声がした。
最初はそれが自分に向けられたものだとは気づかなかった。
ふと目を上げると相手が自分を見下ろしていて、慌てて首を横に振った。

ずっと母と二人です。
それだけどうにか声に出した。
相手もその答えを予期していたらしく、あまり遅くならないうちにこれからどうしてもらうかきちんと決めるよ、とすぐ返事が返ってきた。
その時にはもう男の目はこちらを向いてはいなかった。


[第百八話(まこと篇-4)] [第百十話(まこと篇-4)]

by takuyaasakura | 2008-05-22 12:10 | 第百九話(まこと篇-4) | Comments(0)
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その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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