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第百五十一話(はるか篇-6)

父はとりあえずそのまま数日入院することになった。
外傷はともかく意識がなかなか戻らなかったことが気懸かりだったし、医師もはるかが告げた父の日頃の状態も鑑みて、念のためMRI等の検査を受けることを勧めてくれた。
迷った末はるかもとりあえずこの夜だけは病室で待機させてもらうことにした。
保険証を提出したり父の洗面用具を持ち込んだりは朝一番で帰宅して出勤前にもう一度病院に寄り処理することに決めた。

看護士さんが仮眠用の簡易ベッドを病室に運んでくれた。
彼女が、ではお大事に、何かあったら枕元のブザーを鳴らして呼んで下さいといい置いて出て行くと、はるかは広くはない病室に父と二人きりになった。
父はもうすっかり寝入っているようだった。
規則正しく穏やかな呼吸を眺めているうちはるか自身もようやくほっとすることができた。
また手を握りたい気もしたけれど、起こしてはいけないと考えてやめにした。

時計を見るとすでに深夜を過ぎていた。
思い起こせば朝の早い仕事についたせいもあって、こんな時間まで目を覚ましていたことも実に久しぶりだった。
多少なりとも落ちついてくると、鍵は締めてきたかとか灯りはちゃんと消しただろうかといったことが気になり始めた。
だがもう行って帰ってくるだけの気力はとても出てきそうになかったから、盗られて困る何がある訳でもないとそれ以上は考えないことにした。

一旦は横になってもみたけれど、疲れているはずなのに眠気はなかなか訪れてはくれなかった。
仕方なく体を起こし、そういえばとスカートが汚れていたことを思い出した。
気づくと多少トイレにも行きたい気もし始めて、はるかは父の寝顔を確かめてから足音を殺して廊下へと出た。

非常灯の淡い光線が薄暗いリノリウムの床を間隔をおいて照らし出していた。
左右に伸びる廊下を見渡して、はるかはさほど躊躇もせずに左へと向かうことに決めた。
ほどなく壁に沿った手すりの上にトイレを示す矢印が見つかった。
ドアをくぐってふと既視感を覚えた。
この場所にくるのは初めてのような気がしない。
そう訝ってようやく大事なことを思い出した。

父が運び込まれたのはいつも通っている病院ではなかった。
看板も目にしたし、医師か看護士のどちらかに病院の名前も訊いたはずなのに、今の今までそのことに思い至らなかった。
むしろその自分の方が滑稽だった。
つまりはそれほど動転していたということか。
そう思ってまた一層母に申し訳なく感じた。

自分たちが今いるのはほかでもない、母が息を引き取った病院だった。
用を済ませ鏡の前に立つと化粧はすでにぼろぼろだった。
そちらは諦めてスカートのしみの方をこすってみたけれど、こちらも上手く落ちてはくれそうになかった。

ため息を吐き出してもう一度鏡の中の自分と向き合った。
不意に母の顔が自分の輪郭に重なって見えたのは、たぶん気のせいだったに違いない。
母は結局死の直前までの一月をこの病院から出ることもなく過ごした。
容態の急変など万が一の時のことを考えれば、帰宅させてしまうよりも病院にいる方がいいに違いないと当時はそう考えて父と二人で決めたのだったけれど、今となってみればそれが正しかったのかどうか、はるかにはもう自信が持てなくなっていた。
ただそれが間違っていたとしても決してやりなおすことはできないのだという思いばかりを噛み締めるだけだった。

病室に戻ると今度は母のことが頭から離れなくなっていた。
明日はいつもより早く起きなければならないのに。
そう考えれば考えるほど、心はなおさら過去へと逃げ出したがるようだった。

薄暗い室内を見回すと、なるほど部屋のつくりはあの頃毎日のように通っていた母の個室と似ているようでもあった。
けれどすぐ、病室なんてどこも同じような配置になるに決まっていると思いなおした。

簡易ベッドに再び身を横たえ、はるかは右の手首を額に乗せた。
それぞれの箇所の薄い皮膚の下にある骨の硬さが妙にはっきりと感じられた。
そのまま眠気を待ってみたけれどやはり無駄だった。
仕方なくはるかは目だけを閉じ、記憶や言葉が勝手気ままに甦っては脳裏を闊歩するのに任せた。

あなたにきちんと教えられなかったことがあるんじゃないか。
この頃ね、そんなことばかり浮かんで仕方ないのよ。

母にそんなことをいわれた記憶があった。
あれはいったいいつのことだったろう。
確かあの時も二人きりだった。
園の帰りに寄ったのだろうか、なんとなく夕方だったような気もする。
ひょっとすると、まだ入院を続けるべきかどうしようか迷っていた頃だったかもしれない。


[第百五十話(はるか篇-6)] [第百五十二話(はるか篇-6)]

by takuyaasakura | 2008-07-22 15:05 | 第百五十一話(はるか篇-6) | Comments(0)
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その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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