Thanks! 10th ANNIVERSARY  特別企画
カテゴリ:第百十六話(はるか篇-5)( 1 )

第百十六話(はるか篇-5)

もうずいぶんと日が長くなったらしく、表にはほんのわずかだけれどまだ薄暮の名残が残っていた。
湖の暗さが夜空のそれよりほんのりと際立って見えている。
時計を確かめてみると、実際さほど遅い時間という訳でもなかった。

カーテンをなおして振り向いて、ふとテーブルの上に置きっぱなしの携帯に目が止まった。
充電もしておかないといけないなと考えて、それほど使っている訳でもないのになと自嘲した。

哲平に電話をかけたのはつい昨夜のことだ。
今日もまたかける訳にはやはりいかないだろう。
そう考えた時、ふと飯島先生の顔が浮かんだ。
まるで誰かが自分に何かを促してでもいるようだった。

なるほど彼女には確かめてみたいことがある。
あの駐車場で出くわした時どうして父兄という言葉がすぐ出てきたのか。
原田の家が実力者とはどういうことなのか。
でもそれを両方とも尋ねることは、自分の相手が彼であることをあからさまに仄めかしてしまうことになる。
いや、はっきり告白してしまうのとほとんど変わらないだろう。
そんなことが到底できるはずはなかった。

首を振り食卓の椅子に戻ると、それでもはるかは携帯の画面を開けてぼんやりと待ち受け画面を眺めた。
メモリーにはもちろん飯島先生の番号は入っていない。
普段ならそこで放り出してしまうのだけれど、この時は何故だか諦めがつかなかった。

気がつくと電話台の下から毎年四月にもらう職員名簿を取り出していた。
探すまでもなく彼女の名前は上から二番目に見つかった。
園長の次の位置だ。
記載されていた連絡先は携帯ではなく自宅のものだった。

そこまで確かめて再び躊躇が首をもたげた。
この番号の向こうで相手はいったいどんな生活を送っているのだろうと想像すれば少し不思議な心地もした。
明日仕事の帰りにでも声をかければそれで済むことのようにも思えた。
そもそもこんな時間に自分が電話をかけたりしたら驚かせてしまうことは間違いなかった。
もし彼女以外の家人が出たらと思えば自己紹介から始めなければならないことも煩わしかった。

止める理由ばかりが次々と浮かぶのに、けれど親指はいつのまにゆっくりと番号のボタンを順番にたどっていた。
その感覚はどこか子供時代に戯れに遊んだこっくりさんと呼ばれる遊戯にも似ていた。
同時に片隅では、今この瞬間母が自分のそばにいてくれるようにも錯覚されていた。

やがてディスプレイの上にプリントに見つけた通りの十桁の番号が並んだ。
そのまましばらく表示のデジタル数字を眺めた。
ワープロのアラビア数字の印字に比べるとやはりそれはどこか無機的だった。
そんな記号が声と体温とを持つ誰かに繋がることがおかしくもあり苛立たしくもあった。

親指が滑った。
画面の中でマンガみたいな電話機のマークの受話器が持ち上がった。
画面はただちに発信中の文字に取って代わった。

はるかは慌てた。
かけるつもりなどまるでなかったはずなのに。
そう思ううち手の中で回線が繋がり呼出し音が始まってしまった。
切ろうと思う間もなく電話が繋がった。

「はい、飯島です」

届いた声は本人のものだった。
安堵という訳でもなく咽喉が勝手に一つ動いた。
もう切る訳にはいかない。
意を決しはるかは携帯を耳元に運んだ。

「あ、夜分遅くに申し訳ありません―」

それだけ急いで口にした。
けれど自分の名を名乗る前にはもう一度一呼吸入れなければ声が出なかった。

「片岡です。夜に本当にすいません」

「あら、そうじゃないかと思ったけど、やっぱりはるか先生だ。
どうしたの? 園に忘れものでもした?」

相手の物言いには普段と変わらないからりとした明るさがあった。
だが話す心積もりなどまるでしていなかったはるかの方はすぐには言葉が出なかった。

「いえ、そうではないんですけれど」

切れ切れにそう絞り出しながら自分の声が小さくなっていくのがわかった。
回線の向こうで相手はなお続きを待っているようだった。

「やっぱり、すいません」

「どうしたの? 謝ってばかりで」

少しだけ飯島先生の声音が低くなった。
はるかが答えられずにいると小さなはずのノイズが騒がしく耳についた。

「ひょっとして昨日のこと? 
誰にもいってないから安心していいわよ」

続けた彼女の口調は言葉と裏腹に柔らかかった。
ああそうか。
口止めしようと電話をしたと思われても仕方がないんだ。
そう気づいた途端なんだかたまらなく自分がみじめになった。
落ち着かなくちゃと息を整えようとして、いつのまに鼻に水が降りてきていることに気がついた。


[第百十五話(はるか篇-5)] [第百十七話(はるか篇-5)]

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by takuyaasakura | 2008-06-02 12:07 | 第百十六話(はるか篇-5) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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