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カテゴリ:第百三十八話(まこと篇-5)( 1 )

第百三十八話(まこと篇-5)

なるほど人というものは、地球の長い歴史の先端で生命の進化がたどりついた結論の一つの形なのかもしれない。
二足歩行を覚え、火への恐怖を克服し、そして言葉を手に入れて初めて人は人になった。
おそらくそこに間違いはない。

けれどそういった説明は、決して先の問いに真正面から答えていることにはならないのではないだろうか。
かえってどこかはぐらかされてしまったような気がしてしまうのはどうしてなのだろう。

―時折ふとこんなことを想像してみることがある。

肉体がその母親の胎内である瞬間から独立したものとして存在し始めるのとちょうど同じようにして、あるいは心もどこかから生まれてくるのではないだろうか。
それはまだ私たちの知らない体系と仕組みを持つ作用なのではないのか。
そしてその組み合せこそが、実は私たちというものを作り上げているのではないだろうか。

たとえるならそれはフィルムのポジとネガの関係に似ているのかもしれない。
身体の方が基本的には男と女のどちらかにしかなれないのだとしたら、生まれたばかりの心はきっと本来はどちらにもなれるようにできているに違いない。
けれどごくわずかな確率ながら時に男でも女でもない身体ができあがるのと同様に、逆に心には稀にどうしてもどちらかにしか成長することができないものが存在してしまうのだろう。

そう考えると、ある場合にジェンダーの方が肉体の性に先行して決定されてしまっていたように見える理由もなんとなく説明できる気がするのである。
胎児が発達するうえで、はたしてどの段階からそこに心と呼べるようなものが宿っているのかはもちろん自分にはよくわからないけれど、母胎の中でまだ名前すら持たない彼らが必死に耳を済ませていることは今時誰もが知っている。
胎教にはモーツァルトがいいなんて話をどこかで読んだ記憶もある。

仮に妊娠の極めて初期の段階からすでにそれが胎児の中に存在するとして、もし自分の肉体が違う性に成長しようとしていることに気づいたら果たして彼らはどうするだろう。
ひょっとするとある種の蛋白質を合成することを自ら最小限に留めようとしたり、あるいは受け取るべき信号を拒んだり、でなければ見えない腕を懸命に伸ばし必要な物質を手の届く範囲から取り寄せようとしたりして、自身の望む本来の形に自らを近づけようと足掻くのではないだろうか。

そんなふうに考えると、心と身体の性別の不一致という事態が何となく納得できるような気もするのである。

もちろん彼らの意志がこんな言葉による思考の経過をたどるはずもない。
けれどそういういわばまだ誰のものにもなっていない意識のようなものが、実はそこら中で絶えず働いていることは私たち自身がよく知っている。
心臓が日々鼓動を止めなかったり、爪や髪が勝手に伸びたり、そんな自分たちの意図の有無にかかわらず起きる肉体のすべての作用がその証拠となるだろう。
私たちを生かそうとする力は私たちの意志とは無関係に私たちに内在している。
それは人も動物も虫もかわらない。

あるいはさらに植物が日光を求めて幹や枝を伸ばす様をここに挙げてもいいのかもしれない。
言葉はもちろん、ひょっとすると意識さえもたない草花はそれでも日々選択を繰り返している。それもまた同じ種類の作用なのではないだろうか。

―では最初のそれはいったいどこから来て私たちに宿ったのだろうか。

答えなどわかるはずはないと知りながらなお、繰り返しその疑問を突き詰めてしまうことをまことは止められないでいた。
もしも心が何かから生まれてくるのだとしたら、ちょうど肉体がその両親からそれぞれに形質を受け継ぐのと同様に、心もまた最初から完全な無垢ではなく、たとえばほんのわずかな色を帯びるようにして存在することを始めるのかもしれない。
ある時にはそれは男か女かどちらかへの傾斜となるのだというふうにも説明できるのかもしれない。

そしてそれはたぶん、肉体的な親子関係とはまったく無関係に起こるのだろう。
叶うなら是が非でもそうであってほしいとまことは願う。

GDIを自覚している人たちは、時に自分の体を脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られることがあるらしい。
乳房や、あるいは男性器がそこに見えることが我慢ならないのだそうである。
まことにもその気持ちは半分だけなら理解できる気がした。

あの頃も鏡の中の自分の姿にそこまでの激情を感じることは幸いなかった。
胸の膨らみもさほど煩わしくはなかったし、例の制服も少しずつだが自分に似合ってきているようにも思えた。
だがそこに映る形を好きだと感じられたことは決してなかった。
何よりも日に日に母に似てくる自分の顔が嫌だった。

けれどもちろん、人は決して自身の肉体から逃れることはできない。
つまり自分があの母親から生まれたという事実が消えてなくなることはないということだ。

でももし、心が肉体とは別の体系の中で存在してくれているのなら、少なくともその場所だけはあの女の呪縛から無縁でいることができる。
そう思えるだけで全然ましだった。
だからこそまことは今になってもその想像を手放せずにいた。


[第百三十七話(まこと篇-5)] [第百三十九話(まこと篇-5)]

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by takuyaasakura | 2008-07-02 11:41 | 第百三十八話(まこと篇-5) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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