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カテゴリ:第百四十七話(まこと篇-5)( 1 )

第百四十七話(まこと篇-5)

「別にそんな深い意味はないんじゃないの? あっちの人たちなんて挨拶代わりにするみたいだしさ」

急いで考えてどうにかそれだけ口にした。
はるかはけれど、いったい何がおかしかったのかくすりと笑って自分に向いた。

「え、何? あたし今は変なこといってないと思うけど」

「ううん、そうじゃなくてさ―」

少し憮然として口にすると、相手は今度は慌てたように右手を持ち上げ首を大きく左右に振った。

「ほら、確かにまことのいうとおり、ハリウッド映画なんかだと親子でもしょっちゅうしてるよなと思って、でも自分がお父さんとかお母さんにするのなんて、考えられないやって思ったらなんだかおかしくなっちゃった」

それからはるかは少しだけ下を向き、でも気分悪くさせたんだったらごめん、と小さく一つ呟いた。
すぐにはどう答えればいいのか思いつかなくて、まことは所在なく指を伸ばし人形の頭を小突いた。
それからようやく、別にとだけ口にした。

いつのまに手触りの悪い予感が片隅に兆していた。
体が勝手に身構えていた。
おそらくは意識に上らないような場所ではるかが次に口にするだろう言葉を予測してしまったせいだった。

「そもそもがキスなんて、あたしたちにはまだ全然無縁だもんね」

あーあ、と手を組んだ腕を前に伸ばしてからはるかが続けた。
ああ、と思いながらまことはぎこちなく笑って応じ、そのままはるかから視線を逸らせた。

すでに予感の正体は鮮明だった。
奥底に眠らせていたはずのその記憶が甦ってしまうのを自分ではどうにもできなかった。
何とかしてもうこの話題から離れたかった。
だがどうすればいいのかわからなかった。
嫌な色をした何かが湧いて急激に胸を染め変えていた。
それがまことから言葉を奪ってしまっていた。
脳裏にはいつか人形を持ち上げて床にたたきつけ粉々に壊してしまう自分の姿が描き出されていた。
そうできたらどんなにすっきりするだろうとさえ思った。
今の今までそんなことはすっかり忘れていたのに―。

「でもまことだって当然したことないでしょう」

そのはるかの一言に思わず肩が震えた。
まこと? と怪訝そうな声で相手が自分の名を呼んだ。
でもまことには本当に自分がそこにいるのかどうかさえもうわからなかった。
男の両手が自分の手首をつかんでいた。
逃れる術が見つからなかった。
煙草とアルコールと、それから得体の知れない何かが交じり合った嫌な臭いが男の口から漏れていた。
どれほど顔を背けても臭気は鼻から入り込んできた。
それが肺や内臓をどす黒く塗りつぶしていくようだった。
けれど記憶の再生であるはずのその映像の中、壁際に追い詰められた少女の姿はいつのまにかはるかにすり替わっていた。そして彼女を押さえつけている相手こそが自分の顔をしていた。

「まこと? まこと? ねえ、どうしたの?」

はるかが両肩をつかみまことを自分の方に向きなおらせた。
まことはぼんやりと目を上げた。
初めは両目の焦点がちっとも定まってくれようとしなかった。
それどころかまるで地震でも起きているみたいに視界のすべてが揺れていた。
はるかの顔が二つも三つもあるようだった。
なんでもない、とどうにか声を絞り出した。
そのはずだった。
でも咽喉を出たはずの自分の言葉はいつまで待っても耳には返ってこなかった。

母のあえぐ声が脳裏に直接響いているようだった。
絡み合う二つの裸体が見えた気がした。
男は仁村であるようでもあったし違う誰かでもあるようだった。
だがそれも所詮たいした違いではなかった。
母にかぶさった体が絶えず発散するあの吐き気を催させるような臭気は、結局いつだって同じだった。

自分は押入れの隙間からその光景を見ていた。
暗がりが怖くて、助けを求めて懸命に重い引き戸を動かした。
でもそこに見つけたものはより一層おぞましい光景だった。
一際大きな声を上げ、男の体の下で母の首がのけぞった。
まことの目の前で顔がさかさまになっていた。
尖ったあごが天井を指し、その下にだらしなく口が開いていた。
角度の加減で母の顔は妙につぶれてなんだかかえるみたいに見えた。
不意に母と目が合った。
そんな気がした。
そしてその瞬間、まぶたを下にした母の瞳にあざけるような笑みが浮いたのを、幼かった自分は確かに捕らえた。

まこと、と耳元で再び怪訝な声がした。
大丈夫? 顔青いよ。
言葉はそんなふうに続いたように思えた。
けれど全然そういう意味には聞こえなかった。
肩に何かが触れた。
あれに違いない、と思った。
押入れのもっとも暗い場所にひそんでいたあの何かだ。
体じゅうの穴という穴からもぐりこんできて自分を蝕もうとするあの目に見えない生き物だ。

慌ててまことは手を伸ばしそいつを捕らえた。
絶対に中に入らせてしまってはいけないと考えていた。
でも同時に、そんな抵抗はもうすっかり手遅れなのだということなど自分はとっくに気づいていたような気もしていた。


[第百四十六話(まこと篇-5)] [第百四十八話(まこと篇-5)]

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by takuyaasakura | 2008-07-15 11:51 | 第百四十七話(まこと篇-5) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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