Thanks! 10th ANNIVERSARY  特別企画
カテゴリ:第百九十四話(はるか篇-7)( 1 )

第百九十四話(はるか篇-7)

園長の顔は決して怒っているようには見えなかった。
むしろ痛みをこらえているような表情に近かった。
彼女が小さく唇を噛んだ。
園長のそんな仕草を見るのは初めてだった。

「片岡さん、こんなことをお願いするのが理不尽なことは十分わかっています。
だけどもう私にもどうしようもないのよ」

一つ息を呑む音をはさんで園長が続けた。

「申し訳ないけど、辞表を書いて欲しいのよ」

すぐには言葉が出なかった。
それでも即座に、断ることなどできはしないのだろうなとは理解した。
園長の口調がきっぱりとそれを教えていた。

「もちろんお父様のことも存じ上げていますから、退職金という形で多少の援助はしてあげるつもりです。
だけどそれが精一杯なの。
わかってもらえると嬉しいけど」

「今日お返事差し上げないとだめですか」

遮るようにはるかが尋ねると、園長は少し間を置いてから、それでもいいえと答えてくれた。
何の救いにもならないとわかっているのに少しだけほっとした。

「ねえ片岡さん」

かすかに調子をやわらげて園長が切り出した。

「もし貴女がこの町を離れてもいいのなら、知人を探してどこか採用してくれそうなところを紹介してあげることくらいはできるかもしれないわ」

それはつまり、もうこの家で暮らせないということだ。
はるかは即座に首を横に振っていた。
ほとんど考えることもしなかった。

「それはありません」

そう、と呟いた園長は、それからまるで何かを探しでもするように視線をはるかの頭上に動かした。
でもその表情の意味は、はるかには読み取ることは難しかった。

「用件というのは、そういうことです。
遅い時間にこんな形で、申し訳なかったわね。
それから、明日の出勤はどちらでもかまいませんからね」

そういうと園長はテーブルに手をついて立ち上がり、もうお暇しましょうと飯島先生を促した。
二人は彼女の車できていた。
だがそそくさと身支度を始めた園長をよそに、飯島先生はなかなかその場所を動こうとはしなかった。
目が合って、彼女が二人で話をしたいと思ってくれていることが伝わってきた。
でもはるかは首を横に振って応じた。
彼女がそうできないことも十分わかっていたからだ。
相手もすぐそれは察してくれたようだった。

玄関まで二人を見送った。
飯島先生はそれでも園長を先に送り出し、はるかに振り向いて、大丈夫? と訊いてくれた。
大丈夫な訳はなかった。
実際さっきからずっと、それほどまでの大事なのかと、理不尽に思う気持ちを押し殺すのに精一杯だった。
でもそういう感情をそれ自体の赴くままに表に出してしまいたくはなかった。
相手が彼女たち二人ならばなおさらだった。
そんなことをすればまた何か取り返しのつかないことが起きてしまいそうな予感もあった。
ぎこちなく笑顔を作り、はるかはどうにか頷いてみせた。
本当ね、と念を押した飯島先生はそこで肩をすくめていった。

「とにかくね、けっこうすごい剣幕だったのよ。
あたしもどうにもできなくてね。
貴女今日休んでてよかったわよ。
って、でもそんなのちっとも慰めにならないね」

そこで彼女はかすかに目を伏せ、ごめんなさいね、と付け足した。
先生が謝ることじゃないですよ。
はるかはそう首を今度は横に振って答えた。

「でも結局は自分が撒いた種なんだと思います」

だけど本当は決してそれだけじゃないと思っていた。
どうしてあたしだけが何もかもを責められて、こんな仕打ちを受け入れなければならないんだろう。
気がつけばやはりそんなことを考えている自分がいた。
言葉がまた今にも勝手に口から迸りでてきてしまいそうになる。
はるかは懸命にそれをこらえた。

「本当に大丈夫? 
それと、あっちのこともあるし。
帰ったら電話してもいいかしら」

そんな思いが顔に出てしまったのだろう、飯島先生が表をうかがいながら声を潜めてそう訊いてくれた。
けれどはるかはすぐ笑みを繕ってゆっくりと首を左右に振った。

「ごめんなさい。
ありがたいんですけど、今日はもう眠ってしまうと思います」

そう、と少しだけ残念そうな気配をにじませた相手の呟きに、表から園長が彼女の名を呼ぶ声が重なった。
じゃあまたねと小さく手を上げた飯島先生が自分に背を向けて出て行った。
ゆっくりと扉が閉まっていく様をそのまま見守った。
やがて車の音が遠ざかってしまうまで、はるかはその場を動けずにいた。
飯島先生って、やっぱりいい人だったんだな、と思った。
でも多少でも縮まったかと思った彼女との距離も、また遠からず手を伸ばしても届かないほどに開いてしまうのに違いない。
そんな予感をひっそりと感じていた。


[第百九十三話(はるか篇-7)] [第百九十五話(はるか篇-7)]

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by takuyaasakura | 2008-09-22 14:22 | 第百九十四話(はるか篇-7) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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