Thanks! 10th ANNIVERSARY  特別企画
カテゴリ:第二百十話(はるか篇-8)( 1 )

第二百十話(はるか篇-8)

もう一度息を吐いてから、はるかは立ち上がってリヴィングの全体を見回した。
本当なら食事の後はここにも掃除機をかける予定だったのにとは思いもしたけれど、もうなんだかぐったりとして到底気力が湧いてきそうにはなかった。
ダイニングのテーブルの上にはここ数日の郵便物が重ねられ隅に寄席られたままになっていた。
だがそれさえも手をつける気になれなかった。

もうそれ以上家に一人きりでいるのがどうしても嫌だった。
まだ少し早かったけれどとにかく病院に向かってしまおうと決めた。
シャワーを浴び、着替えと化粧とを手早く済ませ、戸締りを確かめて車を出した。
予想通り空は嫌味なほど晴れていた。
ちらりと干しっぱなしの布団と洗濯ものを思い出しもしたけれど、大丈夫だろうと決め込むことにした。

病室に入ると、父はベッドの上で身を起こして窓の方に向いていた。
膝の辺りで組まれた手がふと祈りのようなものを想起させ、その姿が瞬時三年前の母に重なりはるかは慌ててその幻影を追い払った。

「どう? 調子は」

上着を腕にたたみながらベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。
父がゆっくりとガーゼだらけの顔をこちらに向けた。
そのせいか顔色がいつもより白っぽくも見えたけれど、それでも目にはずいぶんと生気が戻っているようで、はるかは気取られぬよう気をつけながらかすかに胸をなでおろした。

「ああ、はるか。ずいぶんと迷惑をかけたみたいだね」

そんなこと気にしないでよと答えかけて、だがそこでふと眉が寄った。
父の口からこぼれたのが予期していなかった音だったからだ。
それが自分の名なのだと気づくまで、ほんの少し時間だけがかかった。

「お父さん?」

恐る恐る口にしてはるかはまじまじと父を見た。
白い布に隠されている頬や眉の動きはよくわからなかったけれど、瞳は微笑んでいるようだった。
何よりもそこに浮いたしっかりとした何かは、もうずいぶんと長いこと父の目には見つけられなかった種類のものだった。

「お父さん、あたしがわかるのね?」

嬉しくて思わず身を乗り出しそうになる自分を懸命にこらえながら口にした。

「何をいいだすかと思えば。そんなことは当たり前だろう」

答えた父は少し怒ったような声だった。
その手触りが一層はるかをほっとさせた。
まるで母が生きていた頃の父が帰ってきてくれたみたいに思われていた。

「しかしはるか、お前ずいぶんと顔色がよくないな。
昨日はなんだか様子もおかしかったし、無理をして疲れをためちゃってるんじゃないのか。
母さんが死んでから家のこともすっかり任せきりだったからな」

「大丈夫よ」

はるかはゆっくりと首を横に振って応じた。
片隅で、今は母の死もちゃんと理解できているらしいとそっと確かめながらだった。

もちろん本当はちっとも大丈夫ではなかった。
こんなふうに面と向かって訊かれてしまえば、脳裏にはたちまち職場のことと妊娠のこととが浮かび上がり、どんなに考えまいと努力しても騒がしくうごめいて止まらなかった。だがはるかはそれでもどうにかしてそのざわめきを押さえつけた。
何か隠しているのではないかと疑われたりしてしまうことなど絶対にないようにと願っていた。

「あたしなら全然大丈夫だから。
お父さんが心配するようなことは何にもないわ」

重ねた自分の声を耳で確かめて、動揺を隠せたことに満足した。

「そうか。まあ、それならいいがな」

納得してくれたようにも見えたのだけれど、それでも父はすぐ唇をすぼめながら難しそうに眉を曲げてしまった。
どうしたの? 頭でも痛いの? 
はるかが慌てて尋ねると、父は首を横に振りながら弱々しく笑った。

「いや、そうではないんだ。
ただどうにも記憶のあちこちがはっきりしなくてね。
年のせいかな。
自分がいつどうしてここに来たのかも、看護師さんたちに幾ら説明してもらっても全然心当たりが見つからないんだ。
困ったものだ」

腕を伸ばし父の手に自分の手を重ねながらはるかはまた首を横に振った。
そしてもう一度一昨日の夜のことと入院の理由を説明してみた。
父も頷きながら聞いてはくれたのだけれど、やはり目つきは不服げだった。

それから少し父の方から質問が続いた。
でも仕事はどうだとかいったことを訊かれてしまえば到底ありのままを答える訳にはいかず、後ろめたく思いながらも当たり障りのない程度の嘘を幾つか口にした。
それでも父が、昨日も今日も休ませてしまって申し訳なかったなと俯いてしまった時にはさすがに悲しい気持ちになった。
首を横に振るだけで答えはしたが、それ以上の言葉はどうにも出てはこなかった。
重ねていたはずの手もいつのまに自分の膝元に戻ってしまっていた。
短い沈黙が辛かった。
本当は話したいことがいっぱいあるはずなのに、何をどう口にすればいいのかがまるで見当がつかなかった。
そうやってはるかが話題を見つけられないままでいるうち、ふと父がまた窓に向けて目を細めた。

「ここにこんなふうに寝ているとね、何だか母さんのことばかり思い出すよ」

ぽつりと父が呟いた。
でもその声は、ただ故人の思い出を懐かしんでいるというものとは少し違って聞こえた。

「どんなこと? あたしの知らないことかしら。
何でもいいから聞きたいな」

他所へ移ってくれた話題に少しだけほっとしながら訊き返した。
でもどこかで胸騒ぎのかけらみたいなものを感じてもいた。
いつかちょうど今と似たような場面で同じような感触を覚えたような気もした。
既視感に似て、それとは少し異なる種類のものだった。


[第二百九話(はるか篇-8)] [第二百十一話(はるか篇-8)]

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by takuyaasakura | 2008-10-17 10:37 | 第二百十話(はるか篇-8) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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