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カテゴリ:第二百十二話(はるか篇-8)( 1 )

第二百十二話(はるか篇-8)

けれどその正体を見極められぬうち、父が再び言葉を継いだ。
一層重苦しい声だった。

「あれはいつのことだったかな。
ある夜母さんが―初子が青い顔をしていったんだ」

言葉の端々がわずかながらはっきりとかすれていた。
ふと視線がぶつかりもしたけれど、目を逸らしたのはやはり父の方だった。

「貴方に黙っている訳にはいかない。
彼女と、寝てしまったと」

そんな、とだけまず考えた。
けれどその感触はすぐ当惑に取って代わられた。

「彼女?」

思わずはるかがその単語を繰り返すと父が眉を持ち上げた。
はるかは繰り返した。

「今お父さん、彼女っていったのよね?」

「ああ、そうだ。それは訊いていないのか」

話を整理できぬままはるかは首を横に振って答えた。
そうか、と父が呟いた。
だがそれきりしばらくの間父は口を開こうとはしなかった。

父の言葉が、彼女というその一言が意味する内容が、はるかにはなかなか理解ができなかった。
いや、心ではもうそれ以外にはないとわかってはいるのに、一方で娘である自分はどうしてもその事実と母の姿とを結びつけることができないでいた。

「やはり話すべきではなかったのかな」

父が首を持ち上げて独り言のように口にした。
わからない、と思ったけれど、自分は首を横に振って応えていた。

「私もショックだったんだよ。
その頃にはもう十年近くも夫婦をやっていた訳だからね。
裏切られたというような思いも確かにあった。

だがそれ以上に当時の私はどうしようもなく混乱した。
何よりね、私には自分がその相手に嫉妬するべきなのかどうかさえよくわからなかったんだ。
もう笑うしかないだろう」

その時の父の感情をどう思い描けばいいのか、はるかには見当もつかなかった。
そんな事態は想像力の限界を優に超えていた。
その思いが通じたかのように父が小さく苦笑して、唇を噛みながら静かに首を傾けて見せた。

「ただ同時に、母さんが何故ずっと一人でいたのか、どうして私のような朴念仁と結婚する気になったのか、その答えを見せ付けられたような気がしたことも本当だった」

はるかの中で、記憶にあるさまざまな場面での母の言葉の意味が、まるで影と光とがゆっくりと入れ替わるようにして反転していった。

「私もさほど詳しく訊いた訳ではないよ。
いや、たぶん初子は話してくれたのだろうけれどあまりきちんと覚えてはいないんだ。
おそらくは耳を傾ける振りをしながら、頭の中では怒りが燃え盛るのにただ任せていたのだろうね。
それでも一つだけ、初子が私との結婚よりもずっと以前に彼女との関係は断ち切っていたといってくれたことだけは確かに覚えているよ」

父がまた唇を噛んだ。
いつのまに両手が膝の上の布団をつかみきつく握りしめていた。

「だがその時の私には母さんを信じきることができなかった。
冷静に考えれば、式から一年も経たぬうちには初子のお腹にはもうお前がいた訳だし、産休を終えるとすぐ仕事に復帰しもしていた。
時間的にも物理的にも、二人がいわば逢瀬を重ねていられるはずはなかったんだ。

それでもな、初子の中にはずっとその相手がいたんだなと思うといたたまれなくてたまらなかった。
今になって思えば、むしろそんな事態になって初めて私は、自分が相手を本当に愛していることに気がついたのかもしれない」

そこで父は長い息を吐き出した。
ひどく苦しげな音だった。

「だが、だからこそかえって許せなかった。
私は真剣に離婚を考えたよ。
私たちのような職業であればそういうことは必ず将来に影を落とす。
それも十分わかっていながらそんなことはもうどうでもよくなっていた。
ただすべてが厭わしくてたまらなかった。
女に妻を寝取られた男よりみじめなものなどこの世にはないだろうとすら考えたものだ。
―それでも私たちが別れなかったのは、はるか、結局はお前がいたからだ。

まことの家を例に出すまでもなく、仕事柄私たちは二人とも、片親の家庭の子供たちというものを少なくなく知ってはいたからね。
その是非は別として、普通以上の苦労や我慢を強いられたり、でなければ悪い誘惑に安易に負けてしまったりといった傾向が高いことは否定しようのない事実だった。
だがら、少なくとも共に教職についている自分たちがよりによって自分の娘をそんな境遇に置くわけには絶対にいかなかった。

それでも、以来私たち夫婦の間は決して元のように戻ることはなかった。
私が初子に心を開くようなことを一切しなくなったんだ。
互いにいい父親と母親であろうということだけは確認したけれど、二人の時間を持つこともなくなった。

だから私は、家にいる間をほとんどずっと書斎と証した自室に閉じこもるようになったんだよ。
いわば仕事に逃げ出した訳だね。
だがそのおかげで試験にも順調に合格し、望み得るうちでもかなり上の部類の地位を得ることができたのだから、まったく皮肉なものだ」

嫌な話を聞かせるね。
父がそっとこちらを向いてそう付け足した。
はるかはどうにか首を横に振って答えた。
でも頭の中はもうほとんど真っ白に近かった。
ただ自分が自分の両親のことさえ何も知らなかったのだなとだけぼんやりと考えていた。

「でも母さんは、どうして―」

思わずそう口にしていた。
だがその続きを言葉にするのには躊躇いがあった。
その気持ちに気づいてくれたのか、父がその先を引き取った。

「そうだな、お前がそれを疑問に思うのも無理はない。
何より母さんは人一倍自分に厳しい人だった。
ある意味では私よりよほど厳格だったといってもいい。
だからこそ初子は自分の背信を私に隠していることすらできなかったんだ。


[第二百十一話(はるか篇-8)] [第二百十三話(はるか篇-8)]

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by takuyaasakura | 2008-10-21 11:07 | 第二百十二話(はるか篇-8) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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