Thanks! 10th ANNIVERSARY  特別企画
第二百三十三話(終章)

けれどまことが言葉をかける前に彼女がまた笑みを作りなおして顔を持ち上げた。

「ねえ、玉子焼きはどう? おいしくできてる?」

「うん、とっても。
一緒に食べた味だなあって思ってた」

「よくお弁当に入れたからね」

そのひとことにふと二人の頭にはもう一人の名前がよぎる。
だが互いにそれを口に出すことはしなかった。
ほんの短い沈黙の後、はるかが箸をおきわずかにまことに身を乗り出した。

「ひょっとしてさあ―」

なぁに、と眉を動かしたまことにはるかが何かたくらむような表情になった。

「貴女が私を好きになったのって、そもそもはご飯がおいしかったからなのかしら」

今度こそまことは本当にむせた。
口の中にあったお米や玉子焼きのかけらが鼻の奥にはりついて、繰り返し咳をしても離れてくれなかった。
ほらほら、とはるかが箱ごと差し出したティッシュを急いで二三枚引き抜いて洟をかんだ。

「いきなりそんなこといわないでよ。
お米鼻に入っちゃうじゃない」

ティッシュを丸めて脇に置きまことは相手をにらみつけた。
少しだけ済まなそうに肩をすくめたはるかだったが、すぐ次には上目遣いにまことを見たかと思うと今度はいきなり目をまるくした。
ほどなく咽喉の奥を鳴らすような音がもれ始め、それは次第に高まってついには笑い声になった。

「まこと、まこと―」

今やお箸も放り出し空いた手を両方ともお腹に当ててはるかは身をよじりながら笑っていた。
まことがさらに眉をしかめると、はるかが手を動かして自分の鼻の下を指差した。

「ここんとこ、ここんとこご飯粒ついてる。
二つも、二つも―」

慌てて手を伸ばすと指先に二つ粒が取れた。
まことは顔をしかめるとさっきのティッシュを取り上げてその二粒を中に隠した。
それでもはるかはまだ笑ったままだ。
いつのまに椅子を引いてすっかり身体を前に折り曲げてさえいる。

「もうとったわよ、ちょっとはるか。
そんなに笑うことないでしょう」

それでもはるかは激しく首を横に振るばかりだ。

「だって、だって、まことってば、すっごい真面目な顔して、なのに、なのに、ご飯粒、ご飯粒、しかも二つ、二つ―」

切れ切れにはるかはそう口にして思い出したようにまことの顔を指差した。
今や目尻に涙さえ浮かべている。
しばらくはまことも相手のそんな様子を憮然とにらんでいたのだけれど、見ているうちいつのまに自分の肩も揺れ出していた。
嗚咽みたいな音が口からこぼれて、やがてそれがはるかのものとそっくりな笑い声に変わっていった。

そのまま二人して食卓に向かい合って笑った。
涙がこぼれて仕方がなかった。
笑いながら泣いている、もうすっかりくしゃくしゃになった互いの顔と向き合うたびに、また新たな笑いが込み上げてどうにも止められなかった。
腹筋がつりそうになるほど笑い、それから二人して顔を見合わせ肩で息をしてどうにか呼吸を整えた。
それでも話しかけようとまことがどうにか真顔に戻ると、その表情にまたはるかが笑い出し、手のひらをこちらに向けて、ちょっと待って、といいながらもう片方の手を胸に運んだ。
けれどその仕草がなんだかマンガみたいで、今度はまことが手を目元に運ばなければならなくなった。

ようやくどうにか二人とも笑いが収まって、それぞれに放りだしていた箸に手を伸ばした時だった。
ふとはるかが顔を持ち上げた。

「でもまこと、やっとちゃんと笑ったね」

まこともかすかに唇をすぼめながら頷いた。

「うん。
なんだかすごくひさしぶり。
お腹どころか、顔の筋肉までつっちゃいそう」

その答えにはるかは再び箸をおくと、また最初のように両肘をついてその真ん中で組んだ手に顔を乗せた。

「ねえ、訊いてもいいかな」

「えと、なあに」

少しだけ真剣になった相手の表情に、まことは運びかけていた両腕をテーブルの上に戻して待った。
それでもはるかはすぐには先を続けずに、身体を起こすと組んでいた手をそのまま自分の膝の方へと伸ばし、それから短い息を吐いた。
そこで一旦唇を結んだはるかの視線がまっすぐにまことの瞳を覗き込んだ。

「あたしなら、貴女をそんなふうに笑わせてあげられるのね?」

かすかに気圧されて肩を引き、それからまことはぎこちなくうんと頷いた。

「あたしだけなのね?」

はるかが重ねた。
まことはもう一度首を縦に、今度はゆっくりと力をこめて動かした。


[第二百三十二話(終章)] [第二百三十四話(終章)]

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# by takuyaasakura | 2008-11-20 12:07 | 第二百三十三話(終章) | Comments(0)
第二百三十二話(終章)

二人分のご飯とお味噌汁が運ばれてテーブルの上に食事が揃った。
いただきますと頭を下げてまことは箸を手に取った。
口にするどれもどこか懐かしい味がした。
ふと目を上げると、向かいのはるかはまだ箸も持ち上げぬままでいた。
それどころか両肘をテーブルの上につき手を組んで、その上に自分の顎をのせている。
わずかに首を傾げて心なしか目を細めているようでもあった。

「やだ、食べてるとこそんなふうに見ないでよ」

まことが不平を口にした。
けれどはるかは黙ったまま首を横に振っただけでまたすぐ視線をまことの上に戻した。
もう、と頬を膨らませたまことは、仕方なく気にしない振りを繕ってお味噌汁のお椀を両手で抱え口に運んだ。

「どう? おいしい?」

はるかが口を開いたけれど、生憎まことはちょうどお味噌汁を飲み込むところだった。
仕方なく首だけで頷くと、その瞬間いきなりお豆腐の熱さが咽喉に当たった。
驚いて思わず咳を一つ払うとはるかが笑いながらティッシュを一枚とってくれた。
箸をおき、ごめん、と手をあげてもう片方の手で胸を押さえた。
はるかが変な風に見てるからだよ。
そう文句を重ねもしたけれど、それでもやはりはるかは微笑んだままだった。
いいかげんはるかも食べなよ。
顔をしかめてまことがいうと、ようやくはるかも諦めたように箸を手にした。

はるかがお椀を持ち上げて唇をつけた。
その仕草に思わずまことの手の動きが止まっていた。
そんな様子をただみていることが不思議なほど心地よかった。
気づいたはるかが、何よ、仕返し? と鼻を膨らませて見せる。
まことは慌てて首を振り、急いで自分のお茶碗へと手を伸ばした。

少しだけそのまま黙って互いに箸を運んだ。
炊き立てのご飯は温かく甘く、お魚の皮もちょうど香ばしく焼けていた。
まことはまたお味噌汁を口にして、今度はちゃんと飲み下してから口を開いた。

「あたしもずっと先生のところで食事作ってたんだけどさぁ、お味噌汁の味が何だか違うのよね。
あ、先生ってあたしがずいぶんお世話になってた人なんだけどさ、お味噌汁だけはしょっちゅう文句ばっかりいわれてた」

「そうなの?」

「うん。ほら、ほかのお料理ならちゃんとレシピとか、探せばあるじゃない? 
でもお味噌汁にそういうのないし、それに結局は出汁入れて具入れてお味噌溶くだけなんだから、そんなに違いは出ないと思うんだけど、でもいっつもおいしくないっていわれた」

まことがそう続けると、はるかは箸を持ったまま眉を曲げた。

「もしかしてまこと、沸かしちゃってない」

「え?」

訊き返したまことにはるかが大きく首を縦に動かした。

「お味噌汁はね、お味噌入れたら絶対お鍋を沸騰させちゃだめなの。
お味噌ってさ、七十度だか八十度だかを越えると味が変わっちゃうらしいのよ。
だからお味噌溶く時は火を止めて少し冷ましてから入れるようにしないといけないし、温めなおす時もすごい弱火で沸かし過ぎないように気をつけてなきゃならないの」

「そうなんだ。さすがによく知ってるね」

「うん」

頷いたはるかはけれどそこで箸を止め、少しだけ俯いた。

「たぶんね、母さんが一番最初に教えてくれたこと」

ぽつりとそう呟いて、はるかはかすかに鼻を啜った。


[第二百三十一話(終章)] [第二百三十三話(終章)]

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# by takuyaasakura | 2008-11-19 13:30 | 第二百三十二話(終章) | Comments(0)
第二百三十一話(終章)

「はるか―」

少しだけ戸惑ったような口調でまことが相手の名を呼んだ。
けれどはるかはすぐ、まあそれは、後でゆっくり話しましょう、と笑みを崩さず首だけをかすかに傾げて答えた。

「それよりまこと、貴女、お昼はどうしたの?」

はるかが訊いた。
まことは座りながら首を横に振って答えた。

「朝から何も食べてない」

「だめよ、三食ちゃんと食べないと、身体によくないんだから。
とにかくじゃあ、あたしと一緒に食べるでしょう? 
ありあわせのもので急いで何か作るから、ちょっとそこで待っててくれる?」

そういってエプロンを取り上げて首紐をくぐったはるかだったが、けれど手を腰の後ろに回したところでふと眉をひそめてまことに向いた。

「あ、でもその前にまず母さんに挨拶してきてよ。
あの人ずっと、本当に貴女のこと心配してたんだから」

頷いてまことは神妙な顔つきになって立ち上がった。
仏間わかるわよね、と確かめたはるかにまことが大丈夫と返事した。
それでもはるかは結局仏間にまでついてきた。
仏壇の扉は開いたままだった。
はるかが先に部屋に入り燭台の蝋燭に火をつけた。
まことは正座して鐘を鳴らし、静かな動作でお線香を炊き、それからそっと手を合わせた。
その一連を傍らに立ったままのはるかが見守っていた。

「ちゃんといろいろ、きちんと報告しなさいね。
あたしその間にご飯作っちゃうからさ」

はるかが手を上げて消えていくのを見送ると、まことは改めて遺影に向きなおり、もう一度背筋を伸ばしてから改めて合掌した。

「おばさん―」

やがて再び目を開けた彼女の口から、ぽつりとそれだけの言葉がもれた。
目元にはいつのまにかすかな涙がにじんでいる。
不意にどこからか風が行き過ぎて蝋燭の炎を揺らし、何かがことりと音を立てた。
そこでふと、まことは仏壇の脇に赤いものを見つけた。
手を伸ばしてみると、それは子供用の手袋だった。
手袋は左右のそれぞれが一本の赤い毛糸で結ばれていた。

まことが食堂に戻ると、このつかのまにもうキッチンからはお味噌汁や魚の焼けるいい匂いが漂い始めていた。
食器棚を開け中を見上げていたはるかは、それでもまことの気配に気づき、もうすぐできるから座っててね、と口にしながら焼き魚用の皿を手にして振り向いた。

「ちゃんと話せた?」

はるかが訊くとまことは黙ったまま頷いて、それから手に持っていた手袋を前にかざした。

「はるか、これ―」

はるかも一瞬手を止めてその赤い手袋を見つめたけれど、すぐに肩をすくめて、懐かしいでしょう、といいながら少しだけ鼻白んだような表情になった。

「あたしってば、驚くほど物持ちいいからさ」

「そうなんだ」

まことはかすかに眉を寄せはるかの顔と自分の手の中の赤い色彩とを見比べた。

「嘘うそ。
あたしもすっかりなくしちゃったんだと思ってたんだけどね、この前ちょっとお母さんの荷物整理してたら思いもかけずに出てきたの。
ちょっと懐かしくなっちゃってさ、そのまんま出しっぱなしにしてたのね、あたし」

ふうん、と相槌を打ち、まことは手袋を脇に置くと最初の椅子に腰を下ろした。
それから今思いついたという様子で、ねえ、あたしも何か手伝おうかと相手に訊いた。
だがはるかはすぐに首を振り、今日はいいわよ、とまた笑って手を振った。
「ところでさ、おじさんはどうしてるの?」

「うん。実はちょっと怪我しちゃって明後日まで入院してるんだ」

答えたはるかはけれどすぐ、あ、怪我っていっても、骨折ったとかそういうのじゃないからね、と慌てたように付け足して、それから手短に入院の経緯を説明した。

「そうなんだ。
でもじゃあ救急車呼んだり、大変だったんだね。
もう大丈夫なの?」

「ありがとう。
傷は大したことなくて、ちょっとほかのこともあっての念のための検査だから、とりあえずそれほど心配はしなくていいの」

そう返事したはるかが、お盆の上に並べた焼き魚と玉子焼きを運んできた。
どちらもまだかすかな湯気を立てていた。
まこと、じゃあ自分の分とって。
すぐご飯とお椀持ってくるから。
あ、箸は出しといたから、それ使って。
それと、お漬物出したら食べるわよね。
てきぱきとはるかに指示されてまことも中腰になって腕を伸ばした。
するとふと互いの顔が間近に寄って、目を上げたはるかが短く唇を結んでから口を開いた。

「だからさ、家には今あたしたち二人だけなんだよ。ちょっと嬉しい?」

いたずらっぽく眉を持ち上げて見せる相手にまことはかすかに頬を染め、それからすぐ慌てたように顔を背けた。
冗談よ、冗談。
いいながらはるかは空になったお盆ごと右手を持ち上げてまたキッチンに戻っていった。


[第二百三十話(はるか篇-9)] [第二百三十二話(終章)]

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# by takuyaasakura | 2008-11-18 17:11 | 第二百三十一話(終章) | Comments(0)
第二百三十話(終章)

ドアチャイムが鳴った時、はるかはちょうどダイニングテーブルの拭き掃除を終えたところだった。
エプロンを外し椅子の背にかけた後、彼女はまず自分のいでたちをまっすぐ見下ろして汚れの有無を確かめた。
今日は淡いピンクのサマーセーターにグリーンのタータンチェックのスカートを合わせていた。
ちょっと子供っぽいようにも思えたけれど、自分では比較的気に入っていた。
本当は髪にリボンでも結びたい気分でもあったが、さすがにそれは控えていた。

リビングには昼前の陽射しがほどよく差し込んでいる。
テーブルの天板に跳ね返った光に少しだけ満足げに目を細め、はるかは一人頷いて部屋を出た。
それでも彼女はすぐには玄関には向かわずに、一旦洗面所へ歩くと急いで鏡の中の自分の髪形を確かめた。
廊下へ戻ったところでチャイムがまた遠慮がちに鳴り響いた。
今行くからちょっと待ってて。
そう声に出しながらはるかは、もうさほどの距離も残ってはいないというのに小走りになって廊下を駆けた。
靴脱ぎに降り、チェーンを外してドアを開けた。
そこに見つけた相手の姿にはるかはまず息を呑み、それからゆっくりと笑顔を作った。

「おかえりなさい」

俯けていた顔をぎこちなく持ち上げて、まことも一度咽喉を動かしてからようやく彼女に返事した。

「うん、久しぶり」

その声はどこか硬かった。
二人はそれきりしばし互いに黙った。
はるかはドアに手をかけた格好のまま、まことの方もすぐには敷居の向こうから動こうとはしなかった。

―ずいぶん大人っぽくなったね。
でもよかった、全然変わってないみたい。

それは互いの不在の長さを確かめるような時間だった。
不躾なほどの視線で二人は二人とも相手の顔を見つめていた。
そうしていれば、それぞれに通り過ぎてきたすべてが何もない宙を伝ってくるようにも思われていた。
やがてはるかが先に動いた。
両腕を伸ばし、どこかはしゃいだような仕草でいきなりまことの手を取った。

「ほら、そんなとこ突っ立ってないで、とにかく中に入んなさいよ」

「うん。じゃあ、おじゃまします」

だが踏み出しかけたまことに、かまちを上がりかけていたはるかが向きなおって頬を膨らませながら右の手を腰に当てた。

「違うでしょ」

「何が?」

「今のあいさつ」

え、と一旦は眉を寄せたまことだったが、すぐに相手のいわんとしてることを察したらしく、かすかに唇を尖らせながら短く頷いた。
それから少しだけ頬を染めたあと、まことはもう一度いいなおした。

「ただいま」

「はい、おかえりなさい」

はるかがまた笑顔に戻り、さあどうぞ、と家の中へと手を差し伸べた。

かまちの上には二人が昔使っていたスリッパが並んでいた。
そのまま前後に連なって、はるかが時折振り向いてはまことに言葉をかけた。

「髪、ずいぶん短くしてるのね」

「うん。変かな」

「そんなことないよ。
割と似合ってるかも。
ねえ、それ作務衣っていうやつなの?」

「服のこと? ああ、そうだよ」

「あんたひょっとして、それで電車乗ったり、街歩いたりしてきたの?」

「そんなにおかしいかな」

「おかしかないけど、目立ったでしょう」

「そういうの、あたしもうあんまり気にしないから。
それにこれ、動くのすごく楽なんだよ」

「そんなもんなの? 
でもあたしはちょっと気が引けるかも」

そんなやりとりのうち食堂につき、どうぞ、とはるかが椅子をすすめた。
そこはかつてのまことの指定席だった。
まことはでもすぐには腰を下ろさずに、その場所から改めて室内を見回した。
おそらく細かなところには小さな変化もあったのだろうけれど、彼女には何もかもが昔のままであるように思われた。
テレビに向かい合ったソファの位置も記憶の中と同じだった。
あそこで二人並んで映画やドラマを見たりしたっけ。
そう思いふと目を向けるとはるかと視線がぶつかった。
まことには相手がふと頷いたようにも見えた。


[第二百二十九話(まこと篇-8)] [第二百三十一話(終章)]

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# by takuyaasakura | 2008-11-17 11:58 | 第二百三十話(終章) | Comments(0)
第二百二十九話(まこと篇-8)

「わかった。
すぐにいく。
今すぐ出るから、はるか落ち着いて、大丈夫?」

再び少しの間があった。
不意にはるかの吐息が遠くなり、それから小さく洟をかむ音が聞こえた。
まことは辛抱強くはるかの次の言葉を待った。

「ごめんね、また泣いちゃって。
でも、帰ってきてくれるのね?」

届いた声は少しだけ落着きを取り戻しているようだった。

「はるかがいいっていってくれるんなら」

頷きながらまことは答えた。
洟を啜り上げるような音を一つ挟んではるかが続けた。

「じゃあいつごろ着けるかわかったらすぐに連絡ちょうだい。
あたしずっと家で待ってるから」

はるかが懸命に明るい声を作ろうとしているのがわかった。

「はるかん家だね」

まことがいうと、はるかがううん、と首を振った。
見えはしないのにそれがわかった。

「あたしたちの家だわ」

ありがとう、と今度はまことが口にする番だった。
すぐに出発する支度するから。
予定がわかったらその場で連絡入れるから。
まことがそういうとはるかが、うん、わかった、と返事した。

名残惜しさと戦った末ようやく受話器を置くと、まことはそのまま玄関を飛び出して作業場へと駆けた。
座り込んでろくろを回していた先生に頭を下げ、どうしても急な用件ができてすぐ出かけたいのだと息せき切って口にした。
すいませんけれど、夕食の支度もまだ全然手がついてません。
まことがそう重ねると、そんなのは心配に及ばん、と先生がようやくこちらを向いた。
そして先生はそのまま立ち上がり、まじまじとまことの顔を見た。
もしなんだったら帰ってこなくてもいいぞ。
笑いながら先生がいった。
え、とまず当惑し、それから少しだけはにかんで、ありがとうございます、と頭を下げた。
すると先生は、お前のそんな顔、会ってから初めて見たわ、と苦笑しながら付け足した。

「そこがお前の居たい場所なんだな」

はい、とまことは頷いた。

「だったら必死でしがみつけ。
誰に何をいわれても気にするな」

もう一度首を縦に振って答えた。
先生がもういいとでもいうように右手を顔の前に持ち上げた。

「それからまこと」

でもそこで先生は思いついたようにまことの名を呼ぶと、ほんの少し唇をすぼめてから続けた。

「落ち着いたらな、志賀直哉くらいどこかで探して読んでおけ」

そういうと先生はまことの返事などもう待たずに背を向けてろくろの続きに戻っていった。
その背中にもう一度深く一礼し、音を立てないよう気をつけながらまことは作業場を後にした。
訪れた時の鞄に入るだけの私物を詰め、戸締りを幾度も確かめてから家を出た。
鍵は表の郵便受けの中にしまった。
先生なら察して気づいてくれるはずだった。

門をくぐってしまってからは、まことはもう振り向こうとはしなかった。
バスと電車を乗り継いでようやくターミナル駅に着くと、幸い上りの夜行寝台に間に合うことができた。
一番安い指定席を確保して、電話を見つけてはるかの家の番号を押し到着の予定を連絡した。
はるかはただ一言、待ってるからねとだけ口にした。

青い色をした車両に乗り込んだ。
まことの寝台は二階だった。
身を横たえて待っているとやがて車体が一つ揺れ列車が静かに滑り出した。
上体だけを起こして窓へと顔を近づけた。
後ろへと次々と流れていくホームやほかの様々なものを見るともなく眺めながら、この箱があたしをはるかの元へと運んでくれるんだなと思った。
不意に何だか温かいものが胸に込み上げて、いつのまにそれは目尻からこぼれて自分の頬を伝っていた。


[第二百二十八話(まこと篇-8)][第二百三十話(終章)]

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# by takuyaasakura | 2008-11-14 14:11 | 第二百二十九話(まこと篇-8) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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浅倉卓弥インタビュー[1]
浅倉卓弥インタビュー[2]
浅倉卓弥インタビュー[3]
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第二百三十話(終章)
第二百三十一話(終章)
第二百三十二話(終章)
第二百三十三話(終章)
第二百三十四話(終章)
第二百三十五話(終章)
第二百三十六話(終章)
第二百三十七話(終章)
第二百三十八話(終章)
[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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